操られている?操られていない?「洗脳ゲーム サブリミナル・マーケティング」再読
Watanabe.Y
1995年に発行された「洗脳ゲーム サブリミナル・マーケティング」横井真路著。
1990年に社会人になり、広告業に携わるようになって、この本を読んだときには衝撃でした。
当時のアメリカにおけるサブリミナル戦略を俯瞰したもので、ウィルソン・ブライアン・キイ著の「潜在意識の誘惑 SUBLIMINAL SEDUCTION」を合わせて読み、広告の怖さを感じました。
当時というのは、1990年代。
それから30年。
著書を引用します。
「広告業界の神話」
広告とは、日本ではことば通り「広く世間に告げ知らせる」ということだが、英語の「ADVERTISE(広告する)」とは、ラテン語の「AD (ーの方へ)」と「VERT(注意を引く)」が複合してできたことばである。
つまり欧米では広告といった場合、「消費者の注意を、強制的に広告の方へ向ける」という意味合いをもつ。
日本のように、受け手の側に広く告知するのではない。こちらへ酒費者の注意を向けなければ、広告とは言えないのだ。自由市場社会において、経済を推進する機動力は広告であり、マーケティングである。
新商品やサービスに関する情報が消費者の耳に届かなければ、勝買動機や酒費も生まれず、経済は成り立たない。
消費社会に生きている我々は、物を消費し、消費されるために働く。
企業は、消費者を一人でも多く勝ち取るために、あらゆるマス・メディアを動員して、コマーシャルやプロモーションを打ち続ける。広告の究極のねらいは、商品がどれだけ売れるかにかかっている。
広告は単なるイメージ戦略ではない。
デザイン・コンペで賞を取るためでもない。あえて言えば、どんな表現手段を用いることになろうとも、消費者に商品やサービスを購入させることだ。
コマーシャルは元来、誇大宣伝戦術である。
どんな汚れでも落ちる洗剤などあるはずがない。
水虫を完治するクスリが本当に存在すれば、製薬会社は倒産してしまうだろう。
広告はある意味で虚偽の世界である。
映画やテレビ・ドラマの多くが実在しないように、広告もまたファンタジーそのものなのだ。
この前提のもと、さらに引用します。
「サブリミナル広告禁止条例」
1957年9月、アメリカ、ニュージャージー州フォートリーにあるドライブ・イン・シアターで、サプリミナル広告の実験が行なわれた。
これは「ポップコーンを食べようEAT POPCORN」
「コカ・コーラを飲もう DRINK COCA-COLA」というメッセージを、映画上映中(ウィリアム・ホールデン主演の「ピクニック」)に知覚できないほどの短いショットで5秒毎に繰り返し挿入したところ、ポップコーンの売上が58%、コカ・コーラのほうが18%上昇したというものである。サブリミナルとは、サプ(SUB/ーの下)と、ライメン(LIMEN/図)を合成した言葉である。
「識閾」とは、心理学用語でスレショールドTHRESHOLDともいい、意識と潜在意識の境界線を表わす。
たとえば我々が夜寝る時、いつ寝たのかはっきり覚えていない。
このあいまいな境目が「閾」である。
サプリミナルとは「識閾下」であり、反対に「識闘上」はスプラリミナル SUPRALIMINALという。
スプラ SUPRAとは「~の上」という意味である。よく潜在意識を表現するのに、「意識は氷山の一角」といった比喩を用いるが、この場合には「識闘」とは海水面ということなる。
海水に隠れて見えない氷山の本体が「潜在意識」であり、海水面上に突出している氷山の一角が「意識」である。サプリミナル知覚では、「識閾」は非常に重要な要素である。
光や音などの刺激が量的に変化した時、これに気づいたり、或いは気づかなかったりする。
たとえば夜、霧の中を運転しているとしよう。
前方に対向車のヘッドランプが見えたような気がしたとする。
この「見えた」「見えない」の正解率が50%の時、「知覚識閾DETECTION THRESHOLD」は確立されるのである。
もちろん、意識と清在意識の境界線が実在するわけではない。
我々は「心」と「身体」を区別するように教育されてきたが、「こころ」とは脳の生理プロセスであり、これは身体の機能そのものなのである。
人間の感受器官の大まかな「識閾」範囲については、実際に確証されているわけでないが、ギャランター(1962)は目安として次のように類別している。光:澄んだ闇夜で、3マイル(48km)先の地平線に見える蠟燭の光音:静かな部屋で、2フィート(6m)先の腕時計の針の音
味:2ガロン(7.5L)の水に溶いた一匙の砂糖
匂い:3LDK(アノリカにおける)のアパートの空気中に、放散した一滴の香水
触質:鮮の羽が、頬から1cmのところにある時
わたしたちの周辺にある情報は、意図的にしろ、そうでないにしろ、意識に作用します。
従来のメディアであれ、SNSであれ、意識に作用したものに影響され、行動を起こします。
操られている? 操られていない?
一体、どれほどの行動をわたしたちは「自主的」にしているのだろうかと、改めて思うのでした。